占いを当てる方法1

以前書いたのとほぼ同じ内容だがまとめておく。
地震予知を例にとる。
例 1、4、7、10月が危険。東京から見て、東北と南西が危険。
上の予言は非常に当たりやすいことがわかるだろうか。まず、適当に分散して一年のうち危険な月を指定する。上記の例で仮に5月に大きな地震が来たとすると、「4月と占ったが少しずれて来た」と言えば良い。この方法だと何月に地震が来ても対応できる。年末に来たら「翌年来るはずの地震が少し早く来た」と言えば良い。また、東京から見て東北と南西で少しずれた(占い師によっては上記で東から北まで、西から南まで、ちょうど時計なら12時から3時、6時から9時までを含めるようだ)というのまで含めるとほぼ日本全土が含まれるということに注意しよう。そして極めつけが、「時期は外れたが方位はあたった」などという言い訳だ。関係ない要素を並べておいて一つでもあたれば全部あたったことにする方法である。論理学の用語で言えば、本来「AかつB」を当てなければならないのに、「AまたはB」で範囲を広げて当たったことにしているわけだ。
これで当たった当たらないと言っても意味がないことは明白だろう。

自分で間違いを証明する占い師

ある占い師によると、医師は人が死ぬ時刻を予言できないが、その人が占うと二時間の範囲内で正確に予言できるという。
その後、これが全くの誤りだとその占い師自身が証明してしまった。その占い師の親族が入院して残念ながらなくなったとき、病院からの連絡が間に合わなかったらしいのだ。そのことでその病院を恨んでいるのだという。だがちょっと待ってほしい。占いで正確に予言できるならなぜその時刻に病院にいなかったのだろう。

占いが正しいなら聞いてみよう

占いが絶対的に正しいものからの演繹で答えを出しているのなら聞いてみたいことがある。例えば、ゴールドバッハ予想についてだ。たぶん、まだ人類が知るには早すぎるなどと逃げるのだろう。
また、占いが当たるのなら、どうして試験や競争がなくならないのか。面倒な試験などしなくても占いで人物を選べば良いではないか。試合などするまでもなく結果が分かるはずだ。

検証

占い師でも自分の占いがあたることを「検証」している人がいる。ただ、検証するなら統計学の方法を用いて正しくやらないと意味がない。
占いが本当にあたるかという話になると、帰納法の話を持ち出して科学をおとしめたり、哲学的な言葉を持ち出して議論を混乱させたりする人がいるが、単純に本当にあたっているか調べるだけでよいと思う。

占いの矛盾

占いの矛盾点を指摘してみよう。

  • 「占いは演繹で絶対的に正しいものから導くから正しい。科学は帰納法で構成されているから絶対に正しいとは言えない」

次のような喩え話から考えると矛盾がわかりやすいかもしれない。

占い師 今占った結果では、問題を起こすグループの中に名前に川とか「さんずい」がつく人はいませんか。
占ってもらった人 確かに、○川さんがいます。

占いが演繹で答えを導くことができるなら、問題を起こすグループ全員の名前が占いで出てもいいだろう。曖昧な問いを投げかけて当てはまるのを待つ、これのどこが演繹なのだろうか。状況からフィードバックするなど、どちらかと言えば帰納的ではないか。また絶対的に正しいものから演繹するのになぜ外れることがあるのか。

  • 「占いは統計になじまない」

曖昧さを利用して当たったことにするから統計処理ができないだけである。予言・予想と現実の間にどれくらいの乖離があるか検定することなど、科学の世界では頻繁に行われているのだ。その予言が占いからきたものであっても現実とどれくらい一致するかは検定可能である。

  • 「生まれたときの時刻で運命が決まる。占いでそれを読むことが可能だ」

「もともと悪事をする運命に生まれついても幅があるから、必ずしも殺人犯になるとは限らない」
ともに占い師の唱える仮説である。殺人をするかどうかは幅ですむ問題ではないだろう。幅の片方では大量殺人、反対では害獣を殺した程度などというのであればその占いに意味はあるのだろうか。そんな大問題が事前に決まっているとする一つ目の説と幅の問題で決まっていないとする二つ目の説は矛盾しているように思う。おそらく、「悪いことをするという運命で」などと取り繕うのだろうが、そんなの予言になっているだろうか。

  • 「前世があるから現世での運の偏りがある。それを読むのが占いだ」

基本的な統計の知識があれば局所的に偏りがあるのは当然だとわかるであろう。ランダムだからこそ時には幸運が続いたりするのだ。さて、前世があるから現在生きていて運の偏りがあるというなら、前世でも運は偏っていたに違いない。前世で運の偏りがないなら現在に運の偏りがあるはずがないというのが占い師の前提であったから。すると前世の前世も運は偏っていたに違いない。さかのぼっていくと人間のいなかった頃はどうなるのかという問題に行き着く。人間がいないのに運が偏っているというのも変な話である。

  • 「(何かの事件で取り上げられた人を見て)あの人相は犯人に決まっている。顔のこの部分に本当にその光景が浮かぶんだ」

事件が解明された頃に言っても単なる刷り込まれた印象の話である。さんざん事件の関係者を悪人呼ばわりしておいて、いざ犯人でなかったケースのときは黙ってしまった占い師をみたことがあるが、マスコミに踊らされていただけだろう。

時間の試練

「時間の試練にさらされて残ったものは本物だ」という考えは、本物として言い切っていいかどうかは別として、確かに真理に近づくための大切なあり方だと思う。しかし、正確には様々な反証にさらされて残ってきたというべきではないだろうか。それを拡大解釈し、ただ単に古い考えが残っていることだけを指して「占いは正しい」などというのは間違っている。
科学とは様々な反証に耐えうる仮説が残ってきたものである。占いが正しいというなら、その結果を正しい方法で検証しなくてはなるまい。厳密に検証しようとすると途端に「占いは統計になじまない」などと言って逃げ出すのではとても正しいとは言えないだろう。
個人的に、「伝統医学や占いは完成している。それに対して自然科学(西洋医学を含む)は発展途上だから駄目だ」というのを「完成論法」と呼んでいる。以前も書いたことだが何を持って完成というのか全く不明である。また、完成していているなら例えば医学においてどうしてその考え方が主流にならないか不思議でもある。占いも完成しているというほど信頼に足るものであれば世の意思決定すべてが占いで決まっていてもよさそうなものである。しかし現実には時間の試練によりその位置づけは小さくなってしまった。特に占いなど迷信と位置づけられたのだ。占いと時間の試練を関連づける人はこの事実を厳粛に受け止めるべきであろう。