前世はあるのか

霊魂については、科学で証明できないだけで実際に存在するという人がいる。たしかに霊魂はあるのかもしれないが、ないかもしれない。逆にあるという証明もできていない。だから「ないと証明できないのだから…」といって逆に存在すると主張するのもおかしな話である。
それはともかく、前世はないであろう。前世があるなら、最初の人間の前世はどうなるのか。進化の過程で人間の祖先に当たるものに前世を見いだすとしても、その退行を繰り返して行けば矛盾が生ずる。とことんさかのぼって生命と言えるものが存在せず、単なる有機体だったときにたどり着いたらどうなるのか。
また、乳幼児が教えていない言葉を話すのも前世があるからだと言うのはこじつけだと思う。自分の知らないところでテレビなどから流れる言葉を聞いていた可能性の方が遥かに現実味があるとは考えないのか。
また、前世があるから人間は生まれたときから言葉はわかっていると主張する人もいるが、これもおかしな話だ。日本語でなされる会話でも成長するに従い内容がわかってくるもの(哲学的な内容など)があることについてはどう説明するのか。前世があって言葉がわかっているのなら、それはどんな言葉なのか。どの程度まで日常生活の知識があるのか。この辺りの説明を求めると面白いだろう。
それに前世を信じる人や占いで運命がわかるという人は社会批判や犯罪者の批判をしてはいけない。例えば殺人犯に対して何らかの刑罰が与えられるというのはみんなが納得するところだと思うのだが、「『前世からの影響』や『運命』が原因です、私は悪くありません」という人間をどう扱うのか。おそらくアドホックな説明として「本人の徳も影響する」などというのであろうが、「それは『徳』が悪いのであって私は悪くありません」という無限退行に陥る。テレビに出演する占い師などはすぐに道徳を説くがやめた方がよい。

定義の大切さ

占ったのはどの分野のことだろう。大物の定義は?科学ならノーベル賞を取ったということか?ノーベル賞をとって亡くならなかった人はどうなのか。政治なら大臣経験者を大物というのか。このように考えていくと、占いが当たったと言うためには事前に用語を定義しておくことの大切さがわかるであろう。曖昧な言葉を使用するから後からアドホックな解説をする余地が生じる。
「政治の混乱」というのも曖昧な言葉である。実際に起ったことを挙げてみよう。
2000年 小渕総理(当時)脳梗塞で倒れる。
2001年 小泉総理(当時)靖国神社参拝で賛否両論。
2002年 小泉総理(当時)北朝鮮訪問。
2003年 内閣改造
2004年 二回目の日朝首脳会談拉致被害者帰国。
2005年 郵政解散
2006年 安倍政権発足。
2007年 安倍総理辞任。
最近の出来事で目についたものをリストアップしてみた。総理が絡む出来事とだけをみても毎年何かある。「政治の混乱」などという曖昧な言葉は何の予言にもならないのだ。

責任持ってますか

代替医療という言葉がある。非常に守備範囲の広い言葉で、evidenceが蓄積され医療の仲間入りをしているものから、完全に胡散臭いものまで様々だ。医療行為として報酬を受け取るためには、様々な制約がある。ここではそういう法的な面は抜きにして純粋に効果について考えてみたい。
最初に、「気を通せばがんが治る」などという話をしている人たち。いつもなら、どれくらい症例を集めたのか、二重盲検は行ったのかなどという統計的な話になるのだが、今回は違った角度からとらえてみる。
代替医療を勧める人は最後までつまり患者さんがなくなるまで経過を追ったのか、自分や身近な人が病気になったときはいっさい医療機関にかからず治療しているのか、などなど様々な疑問が頭に浮かぶ。結局は医療機関に投げておいて、「気を通したから治りが良かった」あるいは「気を通していたから最後は亡くなったのだがそれでも症状は軽かった」などと言っていないだろうか。また、自分が調子の悪いときだけ救急車を呼んで大騒ぎなどしていないだろうか。
別の例を挙げる。乳児に蜂蜜を食べさせないのは、蜂蜜の10-15%がボツリヌス菌で汚染されていること、乳児の大腸では成人のような細菌叢が形成されておらず、十分にボツリヌス菌が殺菌できないこと、ボツリヌス毒素による中毒は、呼吸停止などを起こすことがわかっているからである。しかし、整体を信じているある人によると、少しずつ毒物にならせた方が良いとのことで、乳児に蜂蜜を食べさせることを推奨している。なぜここまではっきり危険だということがわかっていることを推奨するのか。サリンのような毒物も子供の頃から少しずつならせば良いのか、理解に苦しむ。たまたま自分の知りうる範囲でボツリヌス中毒が起きなかったからと言って他人に推奨するのは無責任きわまりないであろう。

占いは演繹か

占いは演繹だから正しく、科学は帰納法で構成されているから正しいとは限らないなどという人がいる。これは前半は完全に間違っていて後半は単なる難癖のように思える。
まず後半について考えてみよう。
科学については、様々な反証が出てきて今までの考えが間違っているとされること、修正されることは確かにあり得る。科学とはその積み重ねだから。例えばニュートンの運動に関する考察は、アインシュタインによってより精密な形で訂正された。しかし、応用という面からとらえるなら科学とはうまく成り立っている仮説の集団と考えてよいだろう*1帰納法でもかなり信頼性が高いと考えられる理由だ。
前半についても考えてみよう。
占いは演繹だから正しいというのは、もし演繹という言葉を「論理学」などで使われる意味で言っているなら完全に間違っている。以下、「論理学でいう演繹」としてこの言葉を使っていると仮定して話を進める。演繹で正しい結論を得るためには正しいとされる前提が必要である。また演繹では新しい内容は何も得られない。演繹では前提と論理から導かれることしか結論として出てこない。
これを占いに当てはめて考えよう。果たして占いの前提は本当に正しいと考えることができるのか。まずここに大きな疑問がある。占った内容を現実に当てはめるときに論理だけで導いているのだろうか。また、論理に飛躍はないのか。これは象徴を読むというときの流れを想定して書いている。本当に演繹と言っていいような厳密な流れなのか。さらに象徴を読むというときに、人によって結論が違うのはなぜなのか。「演繹」なら、技術の差などというものはあり得ず、全員が必ず同じ結論を得るはずだ。*2
こう考えると占いは演繹ではないというのがよくわかる。
付け加えるなら「科学は未完成なのに対して占いは既に完成している。従って占いは常に正しく科学は間違っていることもある」という説も同じように反論できるだろう。何をもって完成とするかという点が全く曖昧だからである。
以前にも書いたが、占いを信じるのは自由である。しかし、占いを正当化するために科学の言葉を持ち出すと、オカルトから疑似科学になってしまう。同様の理由から占いを医療に例えるのも疑似科学化だからやめた方がよい。疑似科学なら科学のツールで検証されてしまうから。

*1:これはテレビやパソコンを例に出すとよくわかる。占いの原理でテレビが作れますか

*2:数学のように途中で間違えることや理解できないことはあるかもしれないが、論理の展開を追えば理解できる人なら必ず同じ結論に達するはずだ

ダメな議論

飯田泰之さんの著書に「ダメな議論」がある。趣旨としては、議論の量は膨大だから、まず機械的なフィルタでダメな議論をふるい落とそう、残ったものについて内容を検討しようということ。そして5つのフィルタを提案している。
占いが当たるかどうかと「気」についての話では、このうち2つのフィルタを用いた。単純なデータ観察で否定されないか、定義の誤解・失敗はないかである。占いの場合、当たりの定義に失敗していて、定義を厳密にすると簡単なデータで否定されてしまう。気の場合は、どうも検証をやってなさそう、つまり単純なデータ観察すらしていなさそうなことがわかる。